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ブラックバードミュージックは、等身大のアイルランド音楽の魅力を本国直送で日本へ紹介することを目的としたプロジェクトです。
名古屋のフィドル奏者小松 大と、在アイルランドの望月えりかが共同で運営しています。

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今月の人物 vol.15 マイコー・ラッセル(Micho Russell)

2015.04.01 17:17|今月の人物
長らくお待たせいたしました、今月の人物の時間です。
先々月の2月、クレア州北部の村、ドゥーリン(Doolin)でラッセルメモリアルウィークエンドフェスティバル2015というイベントがありました。(フェスティバルのウェブサイトはこちらです→Russell Memorial Weekend
この村の出身で音楽一家として知られたラッセル兄弟(と姉妹)にちなんだフェスティバルです。
ラッセル兄弟のマイコー(Micho)、パキー(Packie)、ゴシー(Gussie)の3人による素晴らしい演奏は貴重なレコーディングが残っていますが、中でもマイコー・ラッセルはアイルランド国内はおろか、世界中でアイルランド音楽ファンを魅了しました。いえ、むしろマイコーはアイルランド音楽の素晴らしさを世界中の人々に広めたと言っていいのではないでしょうか。

マイコー・ラッセル
マイコー・ラッセル(Micho Russell 1915-1994)

ラッセル兄弟
[左からマイコー(フルート)、パキー(コンサーティーナ)、ゴシー(ホイッスル)]

今年のラッセルフェスティバルの期間中、マイコー・ラッセルの未収録の録音を集めた見事なアルバムが発表されました。
(エニスのカスティーズショップにて販売しています。こちらです→Micho Russell "Rarities & Favorites 1949-1993"
2枚組のアルバムに、マイコーの音楽にとりつかれたアメリカ人ビル・オクス(Bill Ochs)が1949年から1993年までにコンサートやスタジオ、個人宅、パブなどあらゆる場所で異なる人々により録音されたマイコーの音源を根気よく集め、厳選した49トラックが収められています。

私もアイルランド音楽に出合って間もない頃、マイコー・ラッセルの音楽に夢中になった一人です。
この新しいアルバムに収められたトラックは未発表の録音がほとんどで、改めてマイコーの音楽のクオリティーを噛みしめると共に、その懐の深さに驚嘆しました。

マイコー・ラッセル3
[新しく発表された2枚組のアルバム表紙]

アイルランドの西の果て、アラン諸島を大西洋に見渡す小さな漁村に生まれ育った農夫、マイコー・ラッセル。
そんなバックグラウンドの持ち主がアイルランド音楽界に残した功績は、今や計り知れません。

前置きが長くなりましたが、ブラックバードミュージックの今月の人物では本日、ホイッスルの巨人マイコー・ラッセルを取り上げたいと思います。

マイコー・ラッセルは、コンサーティーナ奏者の母とシャンノースの歌い手であった父のもとに生まれ、故郷ドゥーリンに住み続けたティンホイッスル奏者です。

マイコーにとって、音楽は幼少の頃から日常生活の中に当たり前にあるものでした。近所に住むコンサーティーナ奏者から多くの音楽を学んだマイコーですが、それ以外はほぼ独学で耳から音楽をおぼえていきました。
マイコーが11歳の時に、父が買ってくれたクラーク社のティンホイッスルが彼にとって初めて手にする自分の楽器でした。

14歳で学校をやめ、父の貧しい農地で手伝いをはじめたマイコー。
ファームだけではままならず、時には茅葺き、カートを引いて魚売りに出かけたりと生活は決して豊かなものではありませんでした。

マイコーの若かりし時代、アイルランド音楽はまだパブで演奏されるものではありません。個人の家で人々が集い行われるハウスダンスに呼ばれては、弟のゴシーらと共に歩いて、または自転車をこいで何マイルもの道を旅したといいます。

1932年、マイコーが17歳の時にアメリカ帰りの叔父が木製のフルートをラッセル兄弟にプレゼントし、それからはホイッスルに次いでフルートも演奏するようになりました。

マイコー・ラッセル2

それまで地元の演奏家としてのみ知られていたラッセル兄弟ですが、1930年代にクレアを訪れていた収集家により、初めて彼らの音楽が公に録音されました。その後もシェイマス・エニス(Seamus Ennis)といったアイルランド伝統音楽の収集活動家たちによって、ラッセル兄弟の演奏は記録されていきました。

1960年代、マイコーに転機が訪れます。
RTÉ(アイルランド放送協会)の番組プロデューサーで同じくクレア州出身のトニー・マクマホン(Tony MacMahon)の計らいにより、ダブリンで初のマイコー・ラッセルのコンサートが開かれたのです。

マイコーは、この一大イベントで一躍時の人となりました。マイコーのシンプルかつあたたかな演奏に人々は心打たれ、その後のラジオ、テレビ番組への出演によってマイコーの名は全国的に知られるようになります。
およそ300ものクレアにまつわる曲と歌を自由自在に表現することのできたマイコーに、人々は驚嘆したのでした。

アイルランド西部、モハーの断崖に近い漁村に生まれたこの一人の農夫からあふれ出る音楽の泉。
マイコーの評判はたちまち国外にも広まり、60年代後半からはイングランド、アメリカに渡りパフォーマンスを披露します。1973年にケリー州のリストールで開かれたフラーのティンホイッスル部門にてオールアイルランドに輝くと、その後もアイルランド国内外からオファーを受け、アメリカ遠征、ヨーロッパツアーを精力的にこなします。
1994年の不慮の交通事故で命を落とすまで、マイコーのパフォーマーとしての人生は続いたのです。

マイコー・ラッセル-2
[西クレアのフィドル奏者、ジュニア・クリハン(Junior Crehan)とマイコー・ラッセル]

マイコーは、ホイッスル奏者として知られていただけではありません。フルート奏者、歌い手、はなし家としても飛び抜けた才がありました。とりわけ、マイコーの曲や歌の背景にあるストーリーや歴史といった豊富な知識は、並はずれていました。学校教育は十分に受けずとも、マイコーは真にインテリジェントな人物だったのです。
マイコーのレコーディングを聴いたことのある方ならば、楽器演奏の前後にマイクの前で話し続けるマイコーにおぼえがあるはずです。マイコーの話を注意深く聴いていると、私たちが普段何気なく弾いているジグがもともと歌であったり、曲名の由来の謎が解けたりします。

マイコーは流暢なアイルランド語を操ることもできました。現在クレア州にはゲールタハト(Gaeltacht アイルランド語が主に話される地域のこと)は存在しないことになっていますが、マイコーが幼少の頃までは地域の実に3分の1の人々がアイルランド語を話していました。海の向こうのイニシア島(Inisheer Island ゲールタハトであるアラン諸島の一つ)と目と鼻の先にあるドゥーリンは、1940年までゲールタハトに認定されていました。マイコーが歌う美しいアイルランド語の歌の数々からも、クレア北部のこの地域でアイルランド語が生きていたことがうかがえます。

「私が記録に残さなければ、消えていってしまう歌と音楽」
ラジオも再生機もなかった時代。北クレアというさびしい土地で、人々の記憶の中のみに生きていたこの地ならではの歌や音楽のレパートリーとバリエーション。
マイコーは、その使命を果たすために数多くの録音と著作を残し、アイルランド音楽の保存に努めたのでした。

マイコーの個性的なホイッスル演奏は、一度聴けば誰もが「マイコー」と分かります。どんなに安価なホイッスルを吹かせても奏でられるその美しいトーン。幼少の頃に親しんだコンサーティーナの演奏に強く影響を受けていると言われるマイコーのユニークなホイッスル奏法。
そこにはマイコーという人物が持つユーモア、優しさ、そして喜びが豊かにあふれています。
マイコー・ラッセルの正直でピュアな音楽。これからも私たちを魅了し続けることでしょう。


望月えりか

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今月の人物 vol.14 パディー・クローナン(Paddy Cronin)

2014.05.15 07:10|今月の人物
今からほぼ2か月前の2014年3月15日、パディー・クローナンが亡くなりました。88歳でした。
この訃報はアイルランド音楽界にとどまらず、アイルランドの全国ニュースでも報道され、クローナンというフィドル奏者の死の大きさを実感させられました。

久し振りの投稿となるブラックバードミュージックの「今月の人物」では、この偉大なフィドラーへの追悼の意味も込めて、パディー・クローナンを特集します。

パディー・クローナン2

パディー・クローナンは、1925年、ケリー州のReaboy(リーボーイ)という村に生まれました。リーボーイはコーク州との境に近く、シュリーヴルークラの本場の地です。

シュリーヴルークラ(Sliabh Luachra)とは、アイルランド語で「イグサの山」を指し、この地域一帯を指す名称です。
シュリーヴルークラはアイルランド音楽の伝統が濃く、俗に言えばポルカやスライドといったアイルランド南部の音楽を代表する、聖地ではないでしょうか。
実際にこの土地を訪れてみると、驚くほど静かで土地も貧しく(イグサは不毛な土地に育つ草である)、ここにそんな色濃い音楽の伝統が息づいていたとは信じがたいほどです。

パディー・クローナンは、この地域で幅広く音楽を教えたフィドルの巨匠、ポードリッグ・オキーフ(Padraig O'Keefe)からフィドルを習った最後の生徒の一人です。

1949年、クローナンが20代の頃、このブログの「今月の人物」でも過去に取り上げたパイパーでブロードキャスターのシェイマス・エニス(Seamus Ennis)によって、クローナンの演奏が初めて録音されました。この貴重なレコーディングは、今もアイルランド伝統音楽保存協会(ダブリン)に保管されています。

クローナンはこの録音終了後、同年の暮れにアメリカへ移民として旅立ちます。

クローナンのアメリカ生活はシカゴから始まりますが、ここで出会った女性と結婚し、子どもを6人もうけます。間もなくボストンへ移ったクローナンは、この大都会に根を下ろし、1950年代から70年代にかけてのちに名盤となるレコードを7枚リリースします。

その見事な腕前からアイルランド出身のフィドル奏者としてボストン界隈では言わずと知れた存在となったクローナン。しかし、本職はペンキ屋でした。
クローナン自身、「私は一度もお金を稼ぐために音楽を演奏したことはない」とのちに明言しています。

母国アイルランドで催される音楽祭に合わせ、ほぼ毎年帰郷していたクローナンは、大小のセッションにもよく現れるなじみの顔だったと言います。
そして1990年代初頭、クローナンは40年間過ごしたアメリカ、ボストンからアイルランドへ戻ります。

40年間、ボストンというアイルランド移民がひしめく大都市で音楽に浸ったクローナンは、ここで多くの音楽家たちと出会いました。特に「今月の人物」でも既に取り上げてきたアイルランド移民、マイケル・コールマン(Michael Coleman)ジェイムス・モリソン(James Morrison)パディー・キローラン(Paddy Killoran)といったスライゴ出身のフィドル奏者たちと、クローナンは深い親交がありました。
クローナンは、スライゴというケリーからは極めてかけ離れた土地で育まれた彼らの演奏スタイルに衝撃を受け、始終魅了されていたのです。ケリーの故郷から出なければ決してめぐり合うことのなかった音楽。クローナンのこの幸運は、アメリカという移民大国が与えたギフトと言っていいでしょう。

クローナンは、シュリーヴルークラのポルカやスライドという自らのレパートリーに加え、リールやジグはスライゴ流に装飾を巧みに施し、見事なスピードでもって演奏しました。それはスライゴ出身のフィドル奏者たちをもしのぐ腕であったと言われています。中には「マイケル・コールマンのようにフィドルを弾けるのはパディー・クローナンだけである」と評価する人までいたほどです。

どこまでも繊細な装飾。新鮮でいて軽快。そして美しいほどに悲しく、時代を超越したかのようなパディー・クローナンの音楽の世界。
ひとつの地域の演奏スタイルに固執せず、極めてユニークで個性的なスタイルを確立したことに対する、アイルランド音楽家としての評価はここでも最高のものです。

さて、クローナンは、自らのアイルランド音楽を言葉にして語ることで、多くを伝えた人物でもあります。

パディー・クローナン

今回クローナンを取り上げた理由も、彼の音楽に対する姿勢や投げかけた言葉の中に共感するものが多くあり、また私たちがここから学ぶべきものがあるように感じたためです。
クローナンが残した語りやインタビューからは数々の名言が生まれ、今でもアイルランド音楽の世界で語り継がれています。

下記はクローナンの名言の一部です。

「いい音楽がほしかったら、いいリスナーを見つけないといけないよ」

「私はいつでも昔から伝わる演奏スタイルに従ってきた。それはこれからも変わることがない」

「私は時を経た今でも、家という空間がフィドルを演奏するのに最も適していると思っている。家のキッチンや暖炉のそばで、多くの人々と共に座って過ごすことほど贅沢なことはない。一人の時でさえ、私はここに座り、自分のためだけにフィドルを弾くことが大好きなのだ」

また、商業的に成功を収めている某ミュージシャンから「いくつか曲を教えてほしい」と頼まれたクローナンは、「今あんたがやってるようなくそったれの音楽を、いつまでもやっているがいいさ。本当の音楽をやろうと思ったら、金は稼げないんだからね」と返した、という話も有名です。

こちらの映像で、若かりしパディー・クローナンの素晴らしい演奏を聴くことができます。



シュリーヴルークラからは、前述のポードリッグ・オキーフ(Padraig O'Keefe)やデニス・マーフィー(Denis Murphy)など、アイルランド音楽の世界では欠かせない重要人物が数多く輩出されています。
ブラックバードミュージックの「今月の人物」では、ぜひこれらの音楽家たちも取り上げていきたいと思います。


望月えりか

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今月の人物 vol.13 ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan) その3

2014.01.29 16:48|今月の人物
オキャロランの曲を一つも知らないアイルランド音楽家など皆無である、と言っていいほど絶大な地位を誇るアイルランドの国民的作曲家、ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan)。
特にアイルランド音楽におけるハープ奏者たちにとって、オキャロランの音楽は彼らのレパートリーの実に大きな範囲を占め、決して避けては通れない存在です。

オキャロラン記念碑2
[オキャロランの生まれ故郷、ミース州のノバーにあるオキャロラン像]

最終回となる今回は、オキャロランをとりまく当時の様子と彼の音楽性に焦点を当てて記事を書いていきたいと思います。

あまり知られていませんが、オキャロランの曲には歌詞のついているものも多くありました。つまり、歌だったのです。
歌としてのオキャロランの作品は、その多くが紛失したり、またそもそも歌としては残念ながら高く評価されることがなく、ほとんど世に広まっていません。
オキャロランはハープ奏者として振るわなかったばかりか、詩人としての実力にも恵まれなかったのです。

これは有名な話ですが、オキャロランは作品を作る際、いつも曲を先に作り、それから歌詞を作って曲に乗せていたと言われています。当然、これは本来の作詞作曲とは順番が逆です。つまり、オキャロランは歌詞よりもメロディーを優先させていたのです。作曲の才に抜きん出ていたオキャロランならではのエピソードです。

さて、オキャロランの曲集は今までに何冊も出版されていますが、どの曲集を見てもオキャロランの作曲した曲には、たいていの場合誰かの名前がつけられていることに気づきます。
「O'Connor」や「O'Neill」、「O'Rourke」などアイルランドの王族(チーフテンズ Chieftains)の子孫たちの名前が目立ちますが、それに混じって「Wilkinson」、「Peyton」、「Maxwell」といった明らかにイギリスからのプロテスタント系入植者たちの名前もあります。

これらの人々はパトロン(Patron)と呼ばれました。パトロンとはさまざまな意味での保護者を指す言葉ですが、芸術家などを主に経済的に後援する者、支援者のことです。このようなパトロン、つまり貴族層の人々がオキャロランの時代にはアイルランド全国に点在し、多くのハープ奏者たちはパトロンたちの支援に依存する形で生計を立てていたと言えます。

オキャロランは、ひいきにしてくれるパトロンたちの家を訪ね歩き、彼らのために曲を作って捧げることを仕事としていました。
パトロンたちの記念日や誰かのお祝いのためにオキャロランは作曲し、その曲を依頼したパトロンは相手に贈る、というのが当時の流儀であったようです。オキャロランの曲のほとんどに人名がついているのはそのためです。

アイルランドの文化や言語が迫害の対象となりつつあったオキャロランの時代ですが、オキャロランは入植者であるアングロ系プロテスタントの貴族たちの家にもたびたび訪れ、彼らのための多くの曲を残しています。
日本でも「ガリバー旅行記」の著者として有名な作家のジョナサン・スウィフトは、プロテスタント系の入植者でしたがアイルランドに居住し、オキャロランと交流があったことで知られています。

オキャロランは作曲家として当時から人気があり、多くのパトロンたちがオキャロランに曲を作らせました。彼の到着を待って、結婚式や葬儀が延期となることもしばしばだったということですから、その人気ぶりは相当のものであったと思われます。

オキャロランが当時のパトロンたちにここまでもてはやされ、また今なお人々に愛され続ける理由は、なんと言ってもそのオリジナリティーにあります。

オキャロランが生きた時代のアイルランドにおいて、いわば貴族たちのための音楽であった西洋音楽とアイルランドで発展していたハープ音楽、それに民俗芸能としての音楽の3つは、はっきりと区別されていました。ハープ音楽は、西洋音楽と大衆音楽の2つをつなぐ掛け橋的な存在であったと考えられています。
しかし、オキャロランが成し遂げたこととは、この3つの音楽を融合し、更には当時のアイルランドで流行していたイタリアのバロック音楽の要素を組み込むという独創的なものでした。
オキャロランは、「四季」で知られるヴィヴァルディやコレッリといったイタリアの作曲家たちによる音楽を、当時彼が滞在していたパトロンたちの屋敷でよく聴いていたそうです。
ヨーロッパ大陸からの西洋音楽に傾倒しながらも、オキャロランの音楽は非常にアイルランド的です。
オキャロランの音楽がこれほどまでにユニークでオリジナルであると言われることの理由は、ここにあるのです。

自分の信じる音楽を追求したオキャロランの人生は、アイルランドの激動の時代にのまれるどころか、その時代に寄り添うようにして見事に全うされました。

オキャロランの音楽は、今日のアイルランドの音楽家たちに変わらず刺激を与え、演奏され続けています。
アイルランドに古くから残るハープ音楽の伝統を守るべく、現代のハープ奏者によって今でもさまざまな表現が試みられているのです。

オキャロランハープ
[ハープを学ぶ子どもたち]

「今月の人物」オキャロランに関するこのほかの記事はこちらです。
ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan) その1
ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan) その2


望月えりか

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今月の人物 vol.12 ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan) その2

2013.11.30 07:18|今月の人物
アイルランドを代表する作曲家/ハープ奏者のターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan)。

第2回目の今日は、オキャロランの人柄とその生き様に焦点を当てていきたいと思います。

オキャロランは、「アイルランド最後の吟遊詩人(アイルランドではBard バードと呼ばれる」という肩書きでしばしば紹介されます。

吟遊詩人とそれに類する人々は主に中世の時代からヨーロッパ全土、西アフリカやイスラム圏にも広く存在していたことが知られています。日本の琵琶法師たちも、吟遊詩人と呼べるのではないでしょうか。
それは時に詩人であり、歌い手であり、語り部であり、音楽家、作曲家でした。

アイルランドには古くからハープの伝統があり、屋敷から屋敷へ旅をして回り、貴族たちのために演奏をしたり曲を作って捧げるハープ奏者たちが数多くいたことが記録されています。
オキャロランの生きた17~18世紀はハープ音楽が衰退しはじめた頃でもありましたが、それでも同業者のハープ奏者はオキャロラン以外にもおり、彼らの作曲した曲も現代に数多く残っています。
正確にはオキャロランが最後の吟遊詩人であったわけではなく、また当時こうしたハープ奏者たちが自らを吟遊詩人、バードと認識していたかどうかも定かではありません。

お抱えの音楽家を持つ貴族たちもいたようですが、たいていのハープ奏者たちは馬でアイルランド中のパトロンたちの家を回り、生計を立てていました。貴族たちに仕えて彼らのための曲を作る間は屋敷に居候し、食事を与えられ、家族を支える給金もあったはずです。
そういう意味では、オキャロランを仮に吟遊詩人と呼んだとしても、それはれっきとした職業の一つだったことが分かります。

オキャロランの50ポンド札
[国民的な作曲家として知られるオキャロランは、1971年に発行されたアイルランドの50ポンド札に印刷されていた]

オキャロランは第一回目の記事にある通りマクダーモット・ロー夫人の援助に恵まれましたが、貧しいハープ奏者の中には馬もなく、ガイドをする付き人も持たずに旅してまわったハープ奏者たちもいたそうです。

吟遊詩人などと表現されるといかにもメランコリックで幻想的なイメージですが、実際のオキャロランのキャラクターはこれとは対照的なものであったようです。
明るく社交的でおしゃべり、くだらない話やジョーク、それに女性を好んだ、というのがさまざまなソースから証言されているオキャロランの人物像です。

また、オキャロランは大変な酒飲みでもありました。特にウィスキーが大好きであったことは有名ですが、これはオキャロランに限ったことでなく、この時代の多くのハープ奏者が酒好きであったようです。
「Farewell to Whiskey」(ウィスキーとの決別)や「O'Carolan's Receipt」(オキャロランのレシート)といった曲は、酒にちなんだオキャロランの有名な曲です。

放浪する盲目のハープ奏者オキャロランは、短気であったことでも有名です。
同業者のハープ奏者と口げんかをした末に小突いてバーから追い出した、などという逸話も残っています。

オキャロラン
[酒好きで喧嘩っ早かったオキャロラン]

およそ300年前の時代にアイルランドを生きたターロック・オキャロラン。そのいかにも人間らしい素顔を知ることで、オキャロランの曲がより生き生きとよみがえってくるようです。

「今月の人物」オキャロランに関するこのほかの記事はこちらです。
ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan) その1
ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan) その3


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今月の人物 vol.11 ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan) その1

2013.10.30 08:44|今月の人物
歴史的には時間がかなり前後してしまいますが、オキャロランは「今月の人物」の連載が始まった頃から、必ず初期の段階で取り上げたいと思っていた人物でした。
いわばアイルランド音楽を語る際、避けては通れない人物といったところでしょうか。

オキャロランの音楽は今でもアイルランド音楽の中では絶大で、かつ特殊な地位を占めています。
とても一つの記事には収まりそうにありませんので、今後数回に分けてお送りしていきたいと思います。

「ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan)その1」では、オキャロランの68年間の生涯をさらっていきます。

ターロック・オキャロランは、ご存知の通り盲目のハープ奏者/作曲家です。
歴史に残る唯一のアイルランドの作曲家、といっても過言ではありません。

ターロック・オキャロラン

今から300年以上昔、オキャロランは1670年にミース州のノバー(Nobber)近郊で生まれました。
オキャロランが14歳の頃、父ジョン・オキャロランはミースの隣の州ロスコモンにあったマクダーモット・ロー家に雇用され、オキャロラン一家はこの屋敷の敷地内に住み始めます。

すべてが順調に思えたオキャロランの10代に、その運命を変える出来事が起こりました。
18歳の時にオキャロランは天然痘にかかり、失明したのです。命こそ取りとめたものの、病が去ってみるとオキャロランは完全に目が見えなくなっていたといいます。

それでも、オキャロランは大変恵まれた環境にありました。オキャロランをかわいがっていたマクダーモット・ロー家の夫人が、視力を失ったオキャロランの教育援助をおこなったのです。
夫人は、オキャロランをハープ奏者として育て上げました。3年間の訓練ののち、夫人はオキャロランにハープ、馬、そしてガイドとしての人間を一人与えて、送り出したのです。

これが、オキャロランがアイルランド最後の吟遊詩人、と表現されるゆえんです。

しかし、当時ハープを携えて大きな屋敷を回る音楽家は、オキャロラン一人ではありませんでした。アイルランドだけでなく、ヨーロッパの各地にはこうした詩人や音楽家たちが存在していました。

ハープという楽器は、オキャロランの時代以前からアイルランドにある伝統的な楽器です。オキャロランの生きた17世紀において、ハープは尚も高尚な楽器として位置づけられ、一定の階級の人々にとってハープを弾けることが一つの作法とされていました。オキャロランが訪ね歩いた屋敷の多くにもハープがあり、家主の多くはハープの演奏に通じていたといいます。
日本でいう琴に似た存在だったのかもしれません。

また、アイルランドだけでなく当時のヨーロッパで、障害を持って生きていくことは大変に困難でした。定職につけないということは、ほぼ死をも意味しました。それほど過酷な時代を生き抜くために、障害を抱えた人々は一般人にない芸を磨いて芸人となったり、詩人となったりしました。
アイルランドでは、オキャロランの時代の前後に存在した多くのハープ奏者が盲目であったといわれています。
音楽や歌は口承で伝えられるのが常であったので、楽譜の読み書きができずとも全うできる職業の一つだったのです。
失明したオキャロランが生き残るための道として、マクダーモット・ロー夫人がハープを習わせたのも、ごく自然なことでした。

こうして、若干21歳のオキャロランの放浪人生が始まりました。雨の中、風の中、冬の寒さの厳しい中を、ガイド人にハープを運ばせて2頭の馬で旅を続けるオキャロラン。最初はさぞかし心細かったことでしょう。

最初にオキャロランが訪ねたのは、ジョージ・レイノルズというリートリム州の地主の屋敷でした。
そして、彼こそがオキャロランに作曲の試みを示唆した人物だったのです。

というのも、実はオキャロランのハープ奏者としての腕は人並みで、レイノルズ家での演奏も相当にひどいものだったようです。
オキャロランは、同業者のハープ奏者たちからいつも嘲笑され、訪れる屋敷の主たちからの評価も芳しくなかったといいます。

レイノルズにのせられるままに、オキャロランは一つの曲を作ります。
これが処女作となる「Sí Bheag, Sí Mhór」です。
レイノルズはこの曲を大層気に入り、オキャロランに一流の作曲家を目指すよう助言したと言われています。
ハープの演奏はいまいちでも、こうして作曲という才能を開花させたオキャロランの名は、徐々に人々の間に広まっていきました。

旅を続ける人生の中で、オキャロランは50歳にして結婚します。お相手はフェアマナ州出身のメアリー・マグワイアという女性で、夫婦はリートリム州の小さな農場に居を構えて7人の子ども(娘6人、息子1人)に恵まれます。が、当然オキャロラン本人はほとんど不在であったようです。
13年間という短い結婚生活の末に、妻のメアリーが他界。
その5年後、オキャロラン自身も死の床につきました。

己の身に死が近づいていることを悟ったオキャロランは、最初のパトロンであり、自分を支え教育した生涯の友であり恩人であった、マクダーモット・ロー夫人のもとへ帰ります。
夫人が玄関先に現れると、オキャロランはアイルランド語でこう述べたそうです。

「あらゆる場所を訪ね歩いた末、私は死を迎えるため、ついにこの我が家に戻ってきました。ここは、私が最初に教えを受け、最初に馬を授かった場所です」

オキャロランの大好きなウィスキーを夫人が出すと、しばらくしてオキャロランは一時的に元気を取り戻し、ハープを手にしました。そして、彼の人生で最後となる演奏を夫人のために捧げたのです。
その時にオキャロランが弾いた曲が、「Farewell to Music」(音楽への決別)という大変に美しい曲です。



オキャロランの自らの死における予測は、かなり正確なものでした。
1週間ほどの病床生活をマクダーモット・ロー家で過ごしたのち、1738年3月25日にオキャロランは永眠。

4日間に及んだオキャロランの葬儀には、アイルランド全国から人々が押し寄せたと言います。50年近い歳月を旅してまわったオキャロランは、陽気で社交的な人物でした。そんなオキャロランを慕ったパトロンや音楽家たちが、オキャロランの死に敬意を示すために集まったのです。
葬儀から5日目、オキャロランの棺はマクダーモット・ロー家の墓所に丁重に葬られたといいます。

ターロック・オキャロラン墓所
[ロスコモンにあるオキャロランの墓]

オキャロランの生きた時代は、アイルランドの歴史に暗く残虐な影が忍び寄っていた時代です。クロムウェルによるアイルランド人の大量虐殺から30年と経たない年に、オキャロランは生まれました。イングランドによる制圧にますます拍車のかかる時世に、オキャロランというアイルランド語を話すカトリック教徒が、ここまでの文化的成功をおさめたという事実は、まさに奇跡的とさえ言えます。

次回の「今月の人物」では、オキャロランの素顔に触れてみたいと思います。お楽しみに。

「今月の人物」オキャロランに関するこのほかの記事はこちらです。
ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan) その2
ターロック・オキャロラン(Turlough O'Carolan) その3


望月えりか

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テーマ:アイルランド音楽
ジャンル:音楽